牧師の聖書コラム

 

第2回 「取って読め、取って読め、聖書」
上林順一郎

 「日々を過ごす 日々を過(あやま)つ 二つは一つのことか 生きることはそのまま過ちであるかもしれない日々 “いかがお過ごしですか”と はがきの初めに書いて 落ち着かない気分になる “あなたはどんな過ちをしていますか”と 問い合わせでもするようで・・・」 詩人・吉野弘の「過」と題した詩です。 この歳になっても自分の過ちに気づかされ、後悔しない日はありません。
ところで悔い改めを「改心」と、これまで呼んできたのですが、いまは「回心」と呼んでいます。悔い改めるとは単に反省したり、心を改めたりすることではなく、自分の生き方そのものを変えるという意味だからです。
キリスト教の歴史の中でよく知られている回心は偉大な神学者、哲学者と言われているアウグスチヌスの回心です。彼は若い時からマニ教に没頭しますが、満たされぬ思いの中で放縦の生活を続けます。しかし熱心なクリスチャンであったお母さんの祈りによって回心します。その契機となったのは隣の家から子どもたちの「取って読め。取って読め」という言葉を聞いたからです。彼はそばにあった聖書を手に取って読みます。そこには「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマの信徒への手紙13:14)とありました。彼は後悔したのではなく、聖書の言葉によって回心したのです。
カトリックでは回心のことをラテン語で「メタノイア」と言います。 ある神父さんは、この言葉を反対から読んで「アイノタメ」と理解します。自分の欲望を満たす生き方から隣人への愛に生きることが「回心」ということです。
とは分かりながら、後悔・反省を繰り返している毎日、「後悔、先に立たず」どころか、「後悔、後を絶たず」の日々、いまだ回心ならずということでしょうか。

2020年7月


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