牧師の聖書コラム

 

第5回 「ガンバル」
上林順一郎

 10月に入りましたが、コロナウイルスの感染がいまだ収束せず、経済活動も社会生活面でも、さらに教会の礼拝や活動なども停滞状況が続いています。今後、教会の活動はどのようになるか、気にはなります。10月は学校や幼稚園では運動会の時期です。子どもたちにとって最も楽しい季節ですが、休止や規模を縮小しての実施で「ガンバレ、ガンバレ」との声援が聞こえない寂しいものになりそうです。
 ところで、「ガンバル」は日本人が好きな言葉の一つで、日常的によく使われる言葉です。漢字では「頑張る」と書きますが、「我張る(がばる)」からきているという説があります。「我」を張る、すなわち自分の主張や考えを頑なに主張するということでしょう。一方、「眼張る」という説もあります。「眼張る(がんばる)」は目をしっかりと見開いて、事の真偽を見極めるという意味です。そこから「目をさまして物事に備える」ということになります。 この「備える」は英語ではプロバイド(Provide)といい、もともとの意味は「前の方を見る」で、その名詞形はプロヴィデンス(摂理)です。
 摂理とは神のなさる業のことで、私たち人間の考えや思いの中にあるのではなく、私たちの「前の方にある」もの、すなわち人間の考え及ばない出来事として起こるものです。前の方、すなわち神様を見ることが備えることとなるのです。「目をさましていなさい。その日、その時を知らないからである」(マタイによる福音書25:13) 
 「目をさましている」とは、「眠らないでガンバッテ起きている」ということではなく、神様の摂理に身をゆだねつつ、その場その時にふさわしい責任と使命とに励むという生き方のことなのです。秋の夜長、神様の摂理に思いをはせつつ過ごしましょう。それが安眠の秘訣でもあるのです。

2020年10月


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