牧師の聖書コラム

 

第13回 「野の花を見よ」
上林順一郎

 6月に入り、梅雨の季節を迎えますが、花の美しい季節でもあります。花と言えば、「野の花を見よ」というイエスの言葉が思い出されます。昔の聖書(文語訳)では「野のユリを見よ」となっていましたが、聖書の専門家は野の花は「アザミ」か「アネモネ」だろうと主張します。しかし、「野のアザミを見よ」とか「アネモネを見よ」と言われてもピンときません。やはり「野のユリ」がよいですね。
 ところで、イエスは「空の鳥を見よ、種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」と言い、続いて「野の花を見よ、働きもせず、紡ぎもしない」と言います。空の鳥は男性の、野の花は女性の労働の姿を意味しています。しかしイエスはその労働を否定的にとらえています。労働は生産に繋がり、生産は価値を生み出し、それが人間そのものを価値づけるのです。しかし空の鳥や野の花は労働し、生産活動を行い、自分の価値を生み出すことにあくせくしているのではなく、すべてを神にゆだねているのです。そこにあるがままで神に守られ、生かされ、存在をゆるされているとイエスは語ります。
 「おまえを大切に摘んでいく人がいた。臭いと言われ、嫌われ者のおまえだったけれど、道の隅で、歩く人の足許を見上げ、ひっそりと生きていた。いつかお前を必要とする人が、現れるのを待っていたかのように。お前の花、白い十字架に似ていた」星野富弘さんの「どくだみ」と題する詩です。
 どくだみは臭くて嫌いでした。庭で見つけるとすぐに摘み取って捨ててきました。心を入れ替えました。いまは「野のどくだみを見よ!」嫌われ者であっても神様によって守られ、その置かれた所で一生懸命に咲きイエス様の十字架を証しているのですから。
2021年6月


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