牧師の聖書コラム

 

第25回 「 吸う息、吐く息、神の息」
上林順一郎

  東北の農村で長年伝道をし、その後一時期、カナダの教会で宣教師として働いていた牧師がいました。その牧師が日本の教会学校の子どもたちに「目に見えないが、わたし達が生きていくのに無くてならないものは何だろう?」と問いかけたところ、「空気」とか「酸素」と答えた子どもたちが圧倒的に多かったそうです。
 その牧師、カナダの教会で働いていた時にカナダの子どもたちに同じ質問をしました。子どもたちはいっせいに「LOVE」と答えたというのです。
 空気とか、酸素がなければ人間は生きていくことができないのは事実です。動物も、植物も、生命のあるものは空気を呼吸することによって生きていますから、日本の子どもたちの答えは「正しい」といえましょう。
 しかし、日本の子どもたちが「生きる」ことをまず「呼吸する」という外面的なこととしてとらえているのに対して、カナダの子どもたちは「生きる」ためには愛がなければならないと、考えていたのです。
 「生きている」ことを呼吸をしていると考えるのか、それとも「生きていく」ためには「愛」がなければならないと考えるのか、そこには生きることの意味や価値についての本質的な違いがあるように思わされるのです。
 「天のお父さま どんな不幸を吸っても 吐く息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから」(詩集『ぞうきん』河野進、幻冬舎)
 私たちは空気を吸い、空気を吐くことで生きているのは事実です。しかし、吸う息、吐く息が愛のない怒りや呪いや悪口では「生きている」とは決して言えないでしょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(コロサイの信徒への手紙一、5:16,17)
 恵みの息を与えてくださる神様、私たちの吐く息もいつも感謝でありますように。

2022年6月


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