牧師の聖書コラム

 

第32回 「心の貧しい人々は幸いである」
上林順一郎

  最近、「清貧」という日本語が死語になってしまったと感じています。スポーツの祭典、平和の祭典と呼ばれるオリンピックの開催の裏では大企業がスポンサーの権利を得ようとして莫大な賄賂が一部で横行していたということが明らかになりました。また、相変わらず政治家のカネにまつわる黒いうわさも絶えることはありません。日本は「貧(ひん)」より「貪(どん)」の世界になりつつある気がしています。
 「名利に使われて、閑(しず)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむこそ、愚かなれ。
 財(たから)多ければ、身を守るに貧(まど)し。害を買い、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり」吉田兼好の「徒然草」に出てくる言葉ですが、700年も前の人の言葉とは思えません。いつの世も変わることがないということでしょうか?
 「心の貧しい人々は幸いである」これは聖書の中でも最もよく知られているイエスの言葉です。「心の貧しい」というのは、心の豊かさが欠けていたり、心が貧弱で、自己中心的で、強欲な心の持ち主という意味ではなく、神に対する低さ、謙遜であるという意味で、神と隣人との関係における「貧しさ(低さ)」ということです。
神に対する低さ、謙遜というのは、逆に言えば強者や権力者に対して自己卑下やへつらい、忖度に生きず、弱く低い立場の人に対しても敬愛を示し、共に生きていこうとする生き方のことです。それは人間に対してだけではなく、自然を含めた万物に対しての謙遜な生き方でもあるのです。そこには「天の国」の様相があるのです、
 「天の国はその人たちのものである」とは「心の貧しい人々」への神様の祝福なのです。
 新しい年を迎え、「清貧」の意味を改めて考えてみたいものです。

2023年1月


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