牧師の聖書コラム

 

第37回 「始まりより、終わりが肝心」
上林順一郎

“大きなことを成し遂げるために
 力を与えてほしいと 神に求めたのに
  謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった
偉大なことができるように
 健康を求めたのに
  よりよきことをするようにと 病気を賜った
幸せになろうとして
 富を求めたのに
  賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして
 成功を求めたのに
  得意にならないようにと 失敗を授かった

求めたものは一つとして 与えられなかったが
 願いはすべて 聞き届けられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
 心の中の言い表せない祈りは すべて叶えられた
わたしは もっとも豊かに 祝福されたのだ“

 ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に書かれていた言葉だそうです。
 ここ数か月の間に親しい友人や近親者が相次いで亡くなりました。葬儀に駆けつけたいと思うものも、コロナ禍の影響がまだ続いており、最後の別れもできないまま悲しみを抱く日々です。彼らの多くはキリスト教の信仰を持っていた方々でした。その最期の日々は信仰者らしくすがすがしいものであったと聞きました。
 わたしたちもいずれは死に向かうものです。それが神の与えられた人間の罪への「さばき」と聖書は教えます。しかし、神はその人間への裁きを永遠のものとはされません。
 「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマの信徒への手紙6:8)
 わたしも83歳になります。その一生を振り返るといろいろな苦しみや悲しみがありました。時には絶望や悲嘆にくれることもありました。しかし「わたしは もっとも豊かに祝福された」と、いまは思えるようになりつつあります。

2023年6月


ウィンドウを閉じる