牧師の聖書コラム

 

第42回 「いのちの四季」
上林順一郎

  秋も深まり冬を迎える季節となりました。日本の季節は四季がありますが、私たちの人生にも「春夏秋冬」という四季があるように思います。春は 誕生から始まるいのちを謳歌する青春期です。夏は社会的にいちばん活動できる人生の最盛期です。そして、秋が来ます。第一線を離れ、歩んできた人生を静かに顧みる時と言えるでしょう。そして冬の季節を迎えます。人生の終わりが近づき、死への備えをする穏やかな日々となります。冬、死はだれにもやってくる時です。
 こうした人生を無常で虚無であるという仏教的な人生観もありますが、むしろ死があるからこそ、一日一日の日々の意味と尊さとを考えることができるのではないでしょうか。
 聖書には「時」をあらわす言葉が二つあります。一つは「クロノス」と言い、1分、1時間、1日、1年というように数えることができる時間のことです。いわば、長さを表「量的時間」と言えます。もう一つは「カイロス」でこれは意味を持っている時間のことで、深さをあらわす時間です。「質的時間」と言ってもいいでしょう。
 100歳を超えても現役の医者であった日野原重明さんは医療の現場を離れた後、小学校で「いのち」について教えました。子どもたちに「いのち」を支えている大切なものは何か?と聞くと、子どもたちは心臓や脳や肺と言った人間の臓器を答えます。たしかにそうした臓器は大切で、それらが死ぬと命も終わります。しかし日野原さんは「いのち」とは臓器や肉体のことではなく、「時間」だと教えます。その時間、「量的な時間」はすべての人にとっては同じですが、」しかしその時間を自分のために使うのか、それとも他人のために使うのかによって時間は意味が変わってきます。そして、他人のために使う時間が「いのち」だというのです。
 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3:1)
 神様から与えられた「時間といのち」、それを自分のためだけに使うのではなく、他人のために使う時、神様から与えられた「いのち」が輝き始めるのです。
2023年11月


ウィンドウを閉じる