牧師の聖書コラム

 

第46回 「力は弱さの中に」
上林順一郎

  春3月、各地で桜の便りも聞かれる頃となりました。この時期になると、甲子園球場では春の高校野球全国大会が開かれ、熱戦が続きます。
 ところで、この高校野球全国大会では試合が終了すると、勝ったチームの選手がホームベース上に並び、校歌の演奏とともに校旗がセンターポールに掲揚されます。優勝した学校などは勝つたびに何回も校旗が掲げられ、校歌が球場内に流れるのです。しかし、一回戦で敗退した学校は一度も校歌が流れることもなく甲子園を去っていきます。
 ある新聞の投書欄にそれでは不公平、不平等ではないかとの疑問と次のような提案がされていました。「試合が終わると、負けたチームの選手がホームベース上に並び、その学校の校歌が歌われ、校旗がセンターポールに揚げられ、負けたけれどもよく頑張ったとエールを送るようにするのがよい。そのようにすればすべてのチームが自校の校歌が歌われ、校旗が掲揚されることになる。そして最後の決勝戦が終わると、まず負けたチームの学校の校歌が歌われ、校旗が掲揚される。そして一番最後に優勝したチーム校歌が歌われ、校旗が掲揚され、優勝が称賛される。そのようにすればすべてのチームの校歌が一度ずつ歌われ、等しく校旗も掲揚される。考えてみれば、負けるチームがあるから、勝つチームが生まれる。
 人生も負ける人があるし、勝つ人のいることも事実です。「勝ち負けは時の運」という言葉もありますが、勝敗には人間の力や努力の結果だけでなく、人間を超えたものが働いていることも多いのです。ですから、「勝って奢らず、負けて腐らず」、特にスポーツの世界ではそのように語られてきたのです。
 人生でも同じことが言えるのではないでしょうか。勝った人は負けた人々の努力に敬意を示し、負けた人はさらに自らを鍛えることへと努力するのです。
 パウロはこう言っています。「わたし(神)の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙に、12:9)信仰の世界では、「負けるが勝ち、いや負けるが価値」ということです。
2024年3月


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